先日放映されたDatoenですが、マグネの部分だけ字幕をベースに抜き出してみました。
ところどころ、ナレーションや映像のことも入れていますので、少しは参考になるかも?
1962年11月1日、この日、191人の子供が生まれた。
(世相と他の二人の紹介)
この少年は、のちに10万人のファンの声援と、虚無感を経験することになる
(ナレーションとオープニング)
1962年11月1日
(ヘニー、エリザベートの誕生について)
(エリザベートの)30分後(朝9:00)、Betanien病院で一人の男の子が生まれた
52cm、3920グラムだった。
アンネ・リーセとコーレ・フルホルメンは、彼らの最初の子供を喜んだ。
彼はマグネと名付けられ、父のトランペットの音で眠りについた
(電車に乗っているマグネ)
(団地の前にある広場にたち)
ここは素晴らしい場所だった
ここは一日中、子供達であふれていた
マグネはオスロ郊外に最初に出来た町Manglerudで育った
ここは60年代の将来を楽観した空気にあって、トップレベルのモダンな住宅街だった。
この住居の目的は、強い絆と小さくて友好的なコミュニティを作ることだった
芝生はいつも開いていて、一日中こどもたちで溢れていた
こどもたちは、フットボールをプレイしてミルクを飲んでそしてまた、フットボールをしていた
(ナレーション)
家族はこの町を気に入っていた
母は教師で父のコーレはBent Soelves orchestraでトランペットを担当している
ミュージシャンだった
ここには13-14歳のころから戻ってきてないんだ
僕の部屋はここ
僕が覚えてたよりもちょっと小さいな。
僕のポジションはここで、こんなかんじでみてた
ここに二段ベッドがあって、僕は上だった
妹が下だったんだよ
僕が持っている父の写真の一つは、
父が足を台にのっけて、楽譜を下においてトランペットを
吹いている姿のものだ。
(イメージ映像)
(ナレーション)
父と祖父はよく一緒に演奏をし、のちにマグネも加わった
1969年5月1日、マグネの父はバンドと一緒にツアーへ出た
マグネは6歳で、祖父の家にお泊まりに行っていた
ニュース
調査は続行中。調査官は目撃者にヒアリングをしている。
彼らは墜落の瞬間をみていた模様
飛行機はリンシェーピング(スウェーデンの都市)に向かう途中
乗客はBent Soelves orchestraのメンバー……
その日、僕は祖父に起こされたんだ
僕は、祖父が病気なのかと思った
彼はすすり泣いていた
僕はそれまで、彼がないたところは見たことがなかった
僕にとって、彼は強い人だった
彼は、僕に事故のことを話すという課題を負うことになったんだ
でもできなかった
この時のことで僕が覚えてるのは、僕が彼を励ましていたっていうことなんだ
少しおかしなことに、どんなにエネルギーを使って、子供の頃の写真をみても、僕はあまり父のことを思い出せないんだ
父は事故の前まで僕の人生の大事な一部だった。
そして、事故のあとは、更に重要な一部になったことは疑う余地もないんだ
(ナレーション)
1969年、3人(エリザベート、マグネ、へニング)は小学校へ通い始めた
父を失った後、彼のお手本は祖父だった
彼もまた音楽をやっていた
祖父は、父の音楽の才能と非常に強いつながりがあった。
祖父は音楽家としての父と、その自慢の才能について多く語ってくれた。
彼はもしかしたら、僕が音楽の中に見いだしていた駆り立てるものが見えていたのかもしれない。
それは支えになった。
祖父の家はあらゆる楽器で溢れていた
鍵盤式のアコーディオン、ボタン式のアコーディオン、それから戦前からある珍しいシンセサイザー
楽器を調べることが、僕の子供時代の一部だった。
彼が座って演奏しているのを聞いて、それから、僕にもやらせてくれて励まし続けてくれたんだ。
初めて購入したレコードは、ジミー・ヘンドリックスのコンピレーション・アルバムだった。
どこがいいのかわかるまでは、若干時間がかかったけど。
その後、吸収できるようになった。
彼の音楽は、僕の身の周りにあった音楽を打ち破った
そして、ジム・モリソンひいてはドアーズへいきついたんだ。
(ナレーション)
これが、マグネの音楽の片鱗だ。
近所に住むポールは、自分のバンドでドラムを演奏していた。
僕は自分自身を受け入れて、年上の少年に言ったんだ
僕はギターとアンプを持ってるって。
それが一緒にバンドをやるきっかけになった。
その後、マグネはAskerへ引っ越したが、彼らは出来る限り頻繁に会っていた。
夢は決して諦めなかった
僕らは国外にでて、国際的なバンドになろうってね。
ポールと僕は、祖父から楽器とリハーサル室を貰ったんだ
夢をみられる部屋をもつことは、僕たちにとって、とても大事なことだった。
僕はディスコと呼ばれるものには反対の立場を取ってたんだ
嫌いだったんだ
(ナレーション)
1979年、3人はそれぞれ夢をもっていた
この年、マグネはChateau Neufで行われたNM I Rockに参加した。
ポールとマグネは一緒にバンド『Bridges』を始めていた。
時代はパンクが占めていたが、彼らは独自の路線へ進んでいた
僕たちはサイケデリック・ポップを演奏していたんだ
パンクのダンスはまるで、僕たちがやっていることが如何につまらないかを見せているかのようだった
それをとっても良かったと評価してくれたのは、ロビーでのことだった。
彼は、(ぼくたちの後から)舞台から出てきたんだ
彼は馬のたてがみみたいな長い髪をしていた
そして、穴がいっぱいあいた重そうなアイスランド製のセーターを着てたんだ
彼はとても真面目で、そして大人だった。
彼は近くまでくると、僕たちがノルウェーで一番良いバンドだったと宣言したんだ
それがモートン・ハルケットだった。彼は僕たちとは異なった場所で、打ち負かされていた
僕は耳をピンと立てて、そして彼がどこか違っていると考えたんだ
僕たちはAskerのそう遠くない場所に住んでいた、だから僕たちは最終電車…オスロからAskerまでのに一緒に乗って、音楽のことだけを話したんだ。
バンドのこと、それからどんな音楽が好きで、どんな音楽が嫌いか。
「嫌いなこと」は重要だ
雪がどっしりと降っていた。僕たちは濡れて寒くなった。
そして、出来るだけ全てを話した。
話は両親のことや、両親が何をしているかという話になっていた。
そして、ついに、僕は自分の父がミュージシャンだったこと
でも、飛行機事故で亡くなってしまったことを話した
そしたら傍にいた男は少し静かになった
僕はただ話し続けた
そして、詳しいところまで来た
彼はどんどん静かになっていった
ついに、彼は僕を止めたんだ。そして僕の両肩をつかんで
「僕は、その飛行機が落ちるのをみたんだ」
まさかそんなことを聞くなんて、少しばかり奇妙なことだった。
飛行機が落ちたとき、彼はDrammenの橋を、家族と車で通っていたんだ。
それが彼との出会いだった。一般には、僕らの30年の歴史の光の部分しかみられていないけど、これが、僕らの運命の出会いだったんだ。
彼は、僕に、自分が他の人から強烈すぎると思われていると忠告したんだ。
僕はそれが、彼のうぬぼれに聞こえた。
彼は僕やポールとはあまり一緒にいなかった、そして強烈になった。
そして僕たちは互いに認め合うようになった。
彼はこだわりが強いんだ。
たとえば、これはこうあるべきとか、こうなるとか。
(ナレーション)
1981年ロンドン
それは、ここで起きた
ヤンテローとノルウェーのかぎたばこから遠く離れた場所で
小さな国ノルウェーからきた若者3人は、ここで切り離されたのか
僕たちは極端にナイーブだった
僕たちはそこに身を投げたんだ
僕たちはイギリスにはなんの連絡先もいなかったし、ただ貯蓄するだけだった。
僕らはイギリスに来てこんな感じだったんだ
ああ、くそっ ついに、動きがあった。
僕たちは口笛を吹いた。この時は英語の歌詞はあまりもってなかった。
それは歌うには、陳腐だった。
ポールが口笛を吹き、僕がシンセを演奏した
モートンが唯一、イチオシだったのが、後の「Take On Me」だった。
このときは「Kikelikiy」って名前だったけど。
モートンは、大まじめで、あの繰り返しの最高潮の部分では、そのパワフルな声はまるで時を告げる雄鳥のようだった。
僕らは、ノルウェー語であることと、ちょっと違う感じが、他から切り離されている原因なのだと。
その通りだったけど、僕らが望んでいた方向にはなかった。
聞いた人はみな、こうなった
「ふー……」(手を動かし解らないという表情)
「成功」はなかなかやってこなかった
そして、お金もつきかけていた
住まい関係も自慢できるものではなかった
ベッドは二つしか無くて、マットの一つと、木の床のものを共有してたんだ
だから、誰がマットレスのあるベッドで眠るか、くじ引きをしたんだ
僕たちは面談が叶う度に、家に電話して何が起きているかを話した。
でも、それは僕らが、僕らと一緒にやりたいと思ってくれる他の人達に会う前のほんのささやかな幸せな時間だった。
毎日一生懸命に過ごすなかで、唯一の幸せな瞬間があった
僕はイギリスに渡る一年前からヘイディとつきあっていた
そのときは、僕らはパンクしていたから
なかなか彼女に会いにいけなかったんだ
だからいっぱい手紙を書いた
ある人が切手と買って手紙を出したらいいとアドバイスしてくれたんだ
手紙を書くことが、一日のうちの一番幸せな時間だった
それは、毎日2-3通になった
僕らがバラバラになるのは早かった
経済状況は日々、悪化した
僕たちは、ロンドンの中心から離れていった
連絡も、更にわずかになっていった
僕はもう、どこにもいきつけない気がしてきた
このポップミュージックに対する棘は、僕らを追い詰めていった
ヒットがなければならなかった
(当時の番組)
「さて、ビデオをかけるわけですが」
「このビデオについて、教えてくれますか?」マグネ「このビデオはとてもクールな、ライブアクションとアニメのミックスしたものなんだ」
「では、見てみましょうか。Take On Meです」
「レコード会社とマネージャーの助けで、世界で有名になれそう?」
マグネ「うん」
(ニュース)
-彼らはBeatlesやABBAのレベルにはたどり着けないかもしれませんが
彼らの反撃は、ファンを獲得し、それは彼らの行く末が良いことを暗示しているかのようです。
(ナレーション)
1985年10月19日、成功は現実のものとなった。
a-haはノルウェーのバンドで初めて、ビルボードチャートの1位に輝いたのだ
僕たちは、いっきに盛り上がった。
僕らは外部に対してはそんなタイプではないけど、このときばかりは、
すごく喜んでハグしまくった。
それは特別な経験だった、だって、僕らが一緒に成し遂げたことだったからね。
ここに来るまで、さんざん骨を折ってきたんだ
これで、やっと、僕らは歯を磨き髪を洗えたりとかできるようになった。
そして、一度に沢山のことが起きたんだ。
ニュース;
本日、ノルウェーのポップバンドa-haが初めての世界ツアーを敢行します
世界のマスコミ:五大陸から、新聞とテレビ局があつまった。
a-haは「クリップ」以来の、ノルウェーのヒット商品になった
僕らはロンドンのピカデリーで行われるプレス・カンファレンスに出る予定だった
僕たちがバルコニーに立って下をみたら
(映像:大勢の人)「We love a-ha, we love a-ha」
そこには人が溢れていて、交通はそこでUターンを余儀なくされていた
そして、警官もあふれていた
それはまるで… まるで、僕の記憶にあるBeatlesのときのようだった
鼻に指を突っ込んでも、歓声があがっただろう
僕は他の二人が
互いに「僕たちはポップスターになったんだ」
って言うのを見ていた
(同ニュース番組の中継)
-ノルウェーは、プログラムの一番最後ですか?
「一番上なんだ」
「ツアーの最高潮のときだよ」
「ノルウェーへあがっていく準備は出来てるよ」ニュース:音声が悪く、大変失礼しました. 中継でお伝えしました。
ノルウェーで演奏することは、いつだって特別なんだ
家族も友人もいるから。
祖父みたいに近しい人がみてくれる。
祖父はコンサートにはこなかった。見なくても充分だったんだ。
僕らが舞台に立っている間、祖父はバックステージの廊下を休みなく
いったりきたりしてたんだ。
それが最後に彼をヒーローにしたんだ
それはポールのアイディアだった。
彼を舞台につれてきて、紹介したんだ。これがa-haの祖父だって。
彼はいつも、無条件のファンとしてそこにいてくれた
(ナレーション)
1985年、彼らは夢を叶えた
へニングはダンサーになり、
マグネは国際的なポップスターに。
エリザベートはオスロで自由を謳歌していた
中継:
遅れてポールとマグネも出てきました。
マグネはフィンランド帽をかぶっているようです(当時のテレビ番組)
南部でのa-haフィーバー:
a-haは音楽がいいわ
それに、ルックスも。
僕たちは、ピンナップとか写真に対して、方針を決められなかった
僕は自分のイメージが固定されてることを知らされた
僕たちにとって最悪だったのは、僕たちがビデオを作ることに結び付いてることだった。
僕たちは、ビデオは明るくて楽しいものにしようとした (背景:Touchy!のビデオ)
僕が思うに最悪だったのは、僕ら自身が明るくも面白くもない一団だったってことだ。
君は、いろんな自分に会うだろう
そして考える
「こういうことをしたかったわけじゃない、これは自分の人生じゃない」
(ナレーション)
1991年
彼らがうまれて29年がたった。
マグネはキャリアは新たな頂点を迎えていた
彼とポールが子供部屋で夢見ていた以来の変化だった
それは、僕にとって意味がある、良い感覚だった
それは強烈でドラマチックだった
マラカナスタジオに立ったときが、僕らのキャリアにおける頂点の一つかもしれない
観客の数でギネスレコードを記録したんだ196000人とかそれくらいの数で。
僕は考えてた
「僕はここにいたくない」と。
この考えは酷かった。ここに来るためにさんざん骨を折ってきたんだ
そして、この状況で、欠乏症にかかっていたように感じたんだ
僕は考えた
A:ここに来た人に何も見せられない
B:もうやらなくちゃいけないんだ、出て行かなくては
(ヘイディとの写真)
僕たちは、10-11年間、別に住んでいた
1990年、ロンドンでトーマスが生まれてた
僕たちは92年の始めに住居を移した
それは僕が常々ヘイディにこう言っていたからだ
「きっと良くなる。僕たちはまずすべきことをしなくてはいけない。
アルバムとツアーなんだ」
だから、彼女はロンドンで息子と孤独な生活を送っていた
僕は自分自身の葛藤を抱えていた。状況がすぐによくなることは全くなかった。
もう、よくしないといけなかったんだ
息子に、僕たちがそうだったような青春時代を与えてあげることも大事なんだ
意味を見いだすこと。それが僕らをかき立てる。
それは、僕に、第一に自分自身に立ち返るものを取り戻してくれる。
僕は絵画の仕事をしている
それは僕の人生をしっかり定義することを扱ってるんだ
他の人が指摘することには、僕の作品は一種の期待を与えるって。
僕は今はもう満足すべきだし、栄冠の上で休むべきだ。
僕は栄冠も休息も好きじゃないんだ
でも、僕はまだこの絵の全貌を見ていない
僕は、それはまだ始まったばかりのように感じるんだ